飲茶源次郎
ある言語学者の記事を読んでいたら、次のような叙述がありました。
Where English speakers see the future as being spatially ahead or in front of them, speakers of Aymara in Bolivia and Peru see the future as being behind them and the past in front, as in the expression nayra mara, which is literally “the year I can see” but figuratively “last year.”
(試訳)
英語話者は、未来を空間的に前方、または彼らの前にあると見なすが、ボリビアとペルーにいるアイマラ語話者は、未来を彼らの背後、過去を前と見なす。nayra maraという表現、これは、直訳すれば、「私が見ることができる年」だが、比喩的に「去年」の意味である。
この英文では、 “the year I can see”が、どうして彼らの「前方」を示していて、それが過去の「去年」を意味するかが、詳しく語られていません。
しかし、丁度、『時間とテクノロジー』(佐々木俊尚)を読み始めたときで、同じ話題が、本の冒頭を飾っていました。
その本では、次のように書いています。
「なぜ逆転するのかというと、過去はすでに終わったことだから眼にみえるけれども、未来はまだ起きていないから見えない。だから過去は私たちが顔を向けている前方にあって、未来は背中の方にあるということなのです。」
つまり、過去はすでに終わったことだから眼にみえます。眼に見えるものは、顔の前、すなわち、前方にあるものです。だから、過去は前方にあるという論理です。
関ケ原の戦い以前は、日本人もアイマラ族と同じように考えていたようだと、『時間とテクノロジー』の著書は言っています。
1603年の日葡辞書には、「サキ 先」は、「空間的な前方」と「時間的な過去」の意味だけが記されているそうです。今でもそういう使い方の名残が日本語にも残っていて、
・あの人は2年前に「先にいって」しまった。
と言えば、過去のことを表現していると取っていいようです。
そういえば、著者は言及していませんが、「前」という言葉も、
・この前は、悪かった。
と言えば、過去の行動を示しています。
とここで終わりにしたかったのですが、「英語話者は、未来を空間的に前方、または彼らの前にあると見なす」と書き、未開の民族とは違うという言語学者の宣言も、英語のbefore という語彙を思いめぐらすと意外とそうとは言えないことに気づきました。
これに関しては、次の英語辞書を見れば一目瞭然ですね。
(英辞郎より)
つまり、beforeという意味には、「〔時間的に〕以前に、前に、早く、先に」という意味と、「〔位置的に〕前に、前方に、(人)の面前で、(人)に直接会って」という意味があります。しかも、(過去に関しては)今目の前で起こっていることに関して言及するときに使うと説明されています。
英語でも、少なくてもbeforeにだけ限って説明すれば、「英語話者は、過去を空間的に前方、または彼らの前にあると見な」していて、ボリビアとペルーにいるアイマラ語話者が、過去を前方と見なす考え方と同じ思考をしていると、言えてしまいます。